セミナー・研究会のご案内、ご報告

環境社会学会からのお知らせ

会長メッセージ

新会長挨拶

牧野厚史(熊本大学)

 井上真会長の後任として会長になりました牧野厚史です。皆様にご挨拶を申し上げます。よろしくお願いいたします。さて、私が、環境社会学会に関わり始めたのは90年代後半だと思いますが、当時のことはあまりよく覚えてはいません。阪神・淡路大震災があったりして、身辺が混沌としていたこともあります。けれども、報告者へのフロアからの質問が活発なことにびっくりした覚えがあります。当時は、環境社会学をしようとおもって研究を始めた方はほぼ皆無でしたから、社会学から環境にどうアプローチするかをめぐって、熱い討論が交わされていました。その熱気にあおられて、地域社会学の研究を始めていた私も入会をいたしました。
それからの社会の変化を考えると、環境社会学の活動は、以下の2つの点で成功を収めたといえます。それは、環境を考える際の社会の重要性が認められたことと、学問分野を超えた研究やアカデミズムをこえた実践の推進という2点です。
人間と環境という言い方があります。しかし、環境との関わり方を具体的に考えると、人間を一塊とみなすという考え方では不十分だということに気付きます。社会を構成する人間たちは、それぞれ個性を持つがゆえに、環境について互いに協力したり、深刻な紛争を抱えてしまったり、相互に無関心であったりします。また、実際に環境が問題化している現場での人びとの関係には露骨な格差と支配のシステムの連動がみられることも少なくありません。こうした分裂が日常化している社会の実状と向き合わない限り、環境と関わって生じる様々な問題群を解いていくことは難しいという主張は広く理解されるようになりました。これが、成功の1点目です。
もうひとつは、学問分野を超えた研究やアカデミズムを超えた実践推進の方向が強まってきたことです。環境は、総合的な面を持っており、環境に生じる問題は、様々な領域にまたがっていることがほとんどです。そのため、分野をこえた研究や実践が必要となります。政策の立案や実行、社会的活動までを考えるなら、この点は明らかです。そのこともあって、環境社会学会では、当初から、学問分野を超えた構成員の多様性が重視されてきましたが、この点では、特に井上前会長のもとで顕著な変化がありました。実際に社会学とは異なる方法論で環境について取り組んでこられたいくつかの学会との連携が実現しましたし、アクションリサーチや市民調査などを推進したり討議したりすることができる、制度的な仕組みについても検討がなされました。それらの方向は、今後も強化する必要があります。これが成功の2点目です。
けれども、こうした成功の一方で、課題も見えてきています。課題というよりも、伸びしろといった方が適切かもしれません。その一つに、私たちが共有している社会学という方法の、時代との緊張感を伴った見直しがあります。今から40年前、日本経済が絶頂期にあった頃、私は経済学を学んでいました。その頃、恩師の経済学者から、経済学では国民経済という分析単位が明確だけれども、社会学では分析上の単位があいまいだ、といわれたことを覚えています。この点は、社会学では古くから弱点とされ、経済学に習ってマクロ社会学とミクロ社会学に分ける試みもあったほどです。けれども、環境について考え始めると、この分析単位のあいまいさは、そのまま武器になったように思います。私たちは、人新世(Anthropocene)における地球環境の持続性や、グローバル・サウスに生きる人びとが被る不公正について調べたり語ったりする一方で、原子力災害の被害を受けた人びとの生活再建や、メガソーラー設置に抗う地元住民の言い分への理解をもっと深めたいとも考えます。また、環境技術とAIを駆使したスマートな都市の可能性や遺伝子組み換え作物の危険性を論じながらも、その一方で、息子や娘に連れて行かれるまでは山深い集落で畑仕事をしながら暮らしたい、というお年寄りの声や、空き地が増えた市街地でまちづくりを行う人びとの声にも、もっと耳を傾けるべきではないかとも考えます。こうした様々な空間的広がりに生じる問題について一緒に討議することが可能なのは、社会学という方法論を共有しているからだといってよいように思います。
このように、ローカルな地域の問題とグローバルな世界の問題を一緒に討論できる場所があるということは、とても重要です。ただ、環境社会学が、社会学の知識や方法を用いる応用学問かというと、それだけでは人びとに尽くす上で不十分だと思ってもいます。その際、考えておく必要があるのは、社会学は、ローカルとグローバルを共に捉える複眼的視点を確かに持っていたけれども、変化の主導権は、あくまでもグローバルな世界の側にあると考えられてきた点です。もちろん、人びとの生活の場である地域の主導権や創意を大切にする挑戦も行われてきましたが、グローバルな世界への対抗という影法師のニュアンスがつきまとっていたように思います。これに対して、環境社会学は、環境という、人びとの切実な課題を扱うがゆえに、ローカルとグローバルの関係を、思わぬ方向で解きほぐし、影法師を一歩超える試みができる可能性を持っていると感じています。その可能性追求のためにも、私たちの学問が、主に何を明らかにできる能力をそなえているのか、また、どのような知識や方法論によって人びとに尽くそうとしているのかという点を自覚的に見直していくことが、ますます重要になってきているのではないでしょうか。
それらの事柄を実現するには人材が必要です。幸い、今期の役員の方々はそのような研究と実践をされてきた方々が選ばれていると思います。なによりも、学会の主人公は学会員の皆様であり、黒子としての活動をおこなうことが会長をはじめとする役員の役割だと思います。今後、大学院生をはじめとする、若手会員のサポートも積極的に行いながら、活気ある議論を学会にもたらすべく、皆様の研究と実践の振興に向けて努力する所存です。なにとぞよろしくお願いします。

2021年6月

学会声明

環境社会学会理事会声明(2020年10月6日)

「第25期日本学術会議新規会員任命拒否への異議」

内閣総理大臣は、第25期日本学術会議新規会員候補として日本学術会議が推薦した105名の候補者のうち6名の任命を拒否し、その理由を明らかにしていない。このような決定は、政府による研究者への無言の圧力となり、研究者の自由な発想に根ざした学問の展開と社会の発展を阻害するものである。これに対し、日本学術会議は2020年10月2日、内閣総理大臣に宛て「第25期新規会員任命に関する要望書」を提出した。
 
環境社会学会理事会は、日本学術会議による上記要望書を支持し、同会議が推薦した会員候補者が任命されない理由を明らかにすること、および2020年8月31日付で推薦した会員候補者のうち、任命されていない方について速やかに任命することを求める。
 

環境社会学会理事会声明(2020年9月28日)

「福島第一原子力発電所事故発生から10年の経過をふまえた被害者救済のあり方について」

福島第一原子力発電所事故からあと数か月で10年に届こうとするなか、事故の被害者による集団訴訟が全国各地の地裁・高裁、また最高裁で進んでいる。本声明は、国の原子力損害賠償紛争審査会の指針(以下、原賠審指針)が、原発事故による被害者の将来にわたる救済をはばむ障壁となることのないよう、当事者である原因企業、行政、そして司法に対して認識を促すものである。

原賠審指針は、可能な限り早期の被害者救済に寄与すべく策定されたが、損害の全てを網羅したものではなく、状況の変化に応じた見直しがありうること、原因企業の柔軟な対応が求められることをも示している。

にもかかわらず、被害の実態を狭くとらえ、その広がりや多様性・多面性を十分にふまえないままに「解決した」「終結した」とすることは、将来的には問題をより複雑化させ、その解決を遠ざける危険性がある。その危険性を回避するためには、とくに、(1)被害の過小評価、(2)被害の潜在化とその放置、(3)「被害にもとづく賠償」から「賠償総額にもとづく抑制された被害認定」への逆転、の3点に留意すべきである。

 

(1)被害の過小評価

原賠審指針は、最低限賠償されるべき損害を示すガイドラインであり、被害の総体をカバーするものではない。にもかかわらず、原因企業は、ADRや裁判において、十分な賠償を定めた基準であるかのように援用し、被害を過小評価している。

環境社会学の被害研究の教えるところでは、環境汚染にもとづく被害は、家族生活や地域生活といった社会的な関係性において増幅し、それらが個人の生活に多様な形でふりかかってくる。またこうした社会的増幅は、汚染物質に曝露されていない周辺の人々を巻き込み、二次的な被害をもたらす。

福島第一原子力発電所事故(福島原発事故)被害者による集団訴訟において提起されている「ふるさと喪失(ふるさと剥奪)」という社会関係の次元を視野に入れた損害の指摘は、まさに環境社会学が捉えてきた被害の社会的増幅を司法の場で可視化するものである。問題は、こうした被害の総体を到底カバーしているとはいえない原賠審指針を、原因企業がADRや裁判において十分な賠償を定めた基準であるかのように主張している点である。このような損害賠償の判断は、社会関係のなかで増幅され個々人の生活の様々な局面に入り込む被害の実態を過小評価することにもなりかねない。

被害は、公害問題における婚姻差別が典型であるように、福島原発事故によって設計を変更せざるを得なかった人生の歩みのなかで折々に現れ、時間的に長期にわたって様々な形で社会的に増幅されうる。現時点で顕著に現れている被害だけでなく、将来的な被害も視野に入れた救済策が講じられるべきである。

 

(2)被害の潜在化とその放置

原賠審指針は、生活全般にわたる被害を不可視化するだけでなく、被害を訴える行為を自己抑制させ、これにより被害の潜在化と被害放置を将来的にも拡大させていく懸念がある。

環境社会学における公害研究は、これまでに理不尽な差別や攻撃など、被害を訴えることにともなう様々な二次的被害を避けるために、「被害者が被害を隠す」ことによる被害の潜在化という問題を明らかにしてきた。またそうした事態は、水俣病認定制度の例に示されるように、救済のための制度によってむしろ促進されてしまうことも明らかにされてきた。被害の潜在化や被害放置は、結果的に問題の長期化につながっており、被害者のみならず原因企業や行政、そして地域社会にとって長期間にわたり大きな負担となっている。

福島原発事故においても、この被害の潜在化および被害放置が生じていることが懸念される。第一に、原賠審指針にもとづく被害の過小評価は、必然的に被害の潜在化を引き起こすことになる。第二に、原因企業の和解案拒否によってADRの打ち切りが相次ぎ、被害者が改めて裁判に訴えざるをえない状況も、被害の潜在化と放置を促進させている。第三に、裁判などでしばしば主張される、原告側の訴えを「一部のものに過ぎない」とする加害者側の言い分は、被害の潜在化の問題を看過し、被害放置を拡大させる契機をつくりだしている。

 

(3)「被害にもとづく賠償」から「賠償総額にもとづく抑制された被害認定」への逆転

原発事故による被害の賠償は、原子力損害賠償・廃炉等支援機構法にもとづいて、国が同機構を通じて原因企業に賠償原資を資金交付する仕組みになっている。そのため、本来の「被害の考量にもとづく賠償の決定」という過程から逸脱し、「賠償の総額への配慮にもとづいて被害の考量の制限が加えられる」という逆転現象が生じ、被害の過小評価や被害の潜在化・放置が進行しているのではないかと懸念される。

被害者の救済は、本来であれば、まず被害の大きさが考量され、それにもとづいて加害者による賠償の大きさが決められる形で行われるべきである。しかし、水俣病事件にみられるように、これまでの公害事件においては、逆に、賠償の総額(の抑制)が個々の補償を判断する前提となり、認定される被害の大きさを左右するという現象が生じてきた。そして、このため問題の解決が先送りされるという状況が生じた。

原発事故の被害者救済についても、賠償の早期打ち切りが進められ、賠償総額の抑制が図られているのではないかと懸念される。このような対応が続けば、被害放置状況が今後長期にわたり生じることになる。このような事態を回避するためには、現行の原賠審指針の中身と運用を抜本的に見直し、「被害にもとづく賠償」を適切に行うべきである。

 

政府が東日本大震災の「復興期間」とする10年が経過しようとしている。しかし原発事故により生じた被害の救済は不十分であり、むしろ長期にわたる被害放置を生み出すことが懸念される。現時点において明らかになっていない多様な被害が潜在化している可能性を常に念頭においておかなければ、これから先、20年後、50年後も、原因企業や政府は、被害の顕在化のたびに対応を迫られることになろう。そのような愚を回避すべく、また結果として早期的な問題解決へと至るよう、原因企業、行政、および司法は、現行の原賠審指針に固執せず、被害に真摯に向き合い、公正な判断を下すことを期待する。また、被害実態に即した原賠審指針の中身と運用の抜本的な見直しに、早々に着手すべきである。